[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
黒髪祭の誕生
69年8月20日の教養部授業再開によって、熊大紛争は、数々の火種を残しつつも、一応の終結を見た、そして、この年、黒髪祭が誕生する。
黒髪祭が誕生した経緯については、よくわからない。ここでは、伝説および大学側の見解を並べて載せておく。
伝説とは、次のようなものだ。
それまで、大学当局と一体となり、体制の補完物となっていた熊大祭は、熊大闘争の中で、学生自身の手によって否定され、大学当局や社会を告発するものとして、黒髪祭が生まれた。そのような性格を持っていたために、大学当局は、黒髪祭には関知しないという態度をとり、援助をあたえず、妨害した。
大学側の『熊本大学三十年史』(79)には、学園祭という項目があり、黒髪祭の誕生にふれているので、全文を引用しておく。
「本学における学園祭は昭和43年学園紛争が起るまで、11月1日の開学記念日に「熊大祭」として学生による各種の催しが行われていた。しかし紛争によってこの熊大祭は中止となったため、翌44年、学生側は恒例である学園祭に変えて「黒髪祭」を12月5日から7日まで開催したい旨、大学側に申し入れた。これに対し評議会は11月21日検討を加えた結果、(1)ほぼ従来の学園祭と同様のものであること、(2)全学生が参加できるものであること、を条件として黒髪祭の開催を許可した。ところがその後大学側は、熊大祭実行委員会の構成団体の中に大学が認めていない教養部自治会、文化部会、生協などが入っていたため正式に大学の行事として認めないまま、10年近くが経過した。この間学生側は毎年黒髪祭を開催し、大学側に対して正式なものとして認めるよう要求を続けていた。
これに対して大学側も昭和52年12月、今後は大学としてふさわしい学園祭となるよう指導強化に努力するという方針を決定し、翌53年度より学生部委員会課外活動部会と学生側の間において折衝が行われた。その結果、昭和53年度は11月1日から4日まで(ただし11月2日は全学統一的に休講とする)黒髪祭が開催されることになり、熊大闘争10年間の歴史を再現するパネル展や、各サークル毎のバザーが黒髪キャンパス内で行われた。
なお大学側はこの学園祭の名称を「大学祭」とすることにし、将来は医学部および薬学部をも含めた全学的な行事として制度化する方針である。」
12月1日付の学報には、黒髪祭が行事予定に載っている。許可されたのは事実らしい。
第1回 (69年 昭和44年)
日程:12月 5(金)、6(土)、7(日)
統一テーマ: 大学法=政治的疎外状況の斗いを=
大学に公認されず、通常通り授業が行われる中で、学生会館を会場として行われた。企画参加団体は、14団体であった。サークルの中には、黒髪祭の政治性を理由として参加しないところもあった。
第2回 (70年 昭和45年)
日程不明
統一テーマ: 呪われた世界に死の鐘を打ち鳴らさん!
バザー企画が「初めて登場」する(第6回パンフ) | |
大学が生協の立ち退きを求めて裁判をおこす |
第3回 (71年 昭和46年)
日程: 11月26(金)~
統一テーマ: 月光仮面はもう行ってしまった
バザー企画が「学館を埋め尽」す(第6回パンフ) | ||
初期には、バザー企画は克服すべきものだと考えられたが、その後、次第に、自由の象徴になっていく。〝大学が金をくれないので、サークルは資金稼ぎのためにしかたなくバザーを行う〟といった消極的弁護から、〝バザーも立派な文化である〟〝大学の圧力に負けずにバザーを行うことが告発となる〟といった積極的評価に変わっていくのである。 | ||
課外活動費の黒髪祭予算が凍結される | ||
この年に「Rock in 黒髪」がはじまったと思われる | ||
オールナイトで行われ、終了時間、騒音、治安、風紀などの問題が、大学との大きな対立点となった。 |
「『統一テーマは設けても無意味。しいていうなら無秩序、無内容、無方針の三無主義』(実行委の話)というだけあって、突っ拍子もない催し物が予定されている。まず賞金付き〝マージャン大会〟、そして〝酒豪大会〟。ちなみに〝美人コンテスト〟は『女子学生からの反発を恐れて中止』したが『代わってアッと驚くようなのを予定しています。フタをあけてからのお楽しみに』という。ウワサによるとストリップショーまがいのものを考えているらしい」(『熊本日日新聞』71年)
課外活動費
第3回黒髪祭の予算支給において、学館使用許可願いの提出が条件となったらしい。「黒髪祭実行委は〝学館使用許可願い〟を提出するか、否か、をめぐって二分され、激しい討論の末、提出しないという事で決定した。そして、予算は凍結され、結局、カンパによって黒髪祭をやり抜く事となった」(第6回パンフ)
ここでいう予算とは、大学の予算(文部省予算)ではなく、学生部が新入生から徴収した課外活動費である。黒髪祭も、それまでは、その中から予算を受け取っていた。第1回の予算は、40万円であった。
第4回 (72年 昭和47年)
日程不明
統一テーマ: 闇に咲く毒蜘蛛の花、土深きその根を今この手に
課外活動助成会ができる | ||
学生部による課外活動費の徴収・管理が問題となったため、父兄による組織として結成された。ただし、教職員の顧問を置き、事務を学生部に委嘱しており、純粋な父兄組織ではなかった。 |
第5回 (73年 昭和48年)
日程:12月 6(木)、7(金)、8(土)、9(日)
統一テーマ: 唄を忘れたカナリヤは……
第6回 (74年 昭和49年)
日程:11月 15(金)、16(土)、17(日)、18(月)
統一テーマ: 果たせえぬコクハツを今こそ我らが手で
第7回 (75年 昭和50年)
日程:11月 7(金)、8(土)、9(日)、10(月)
統一テーマ: 新たな熊本大学の建設を
* 文化部会、教養・教育・法文自治会の崩壊で、実行委結成が困難であったが、生協の呼びかけにより結成される。このとき結成されたサークル実行委員会により、12月に、文化部会が再建された。
* 課外活動助成会が集金を中止
文化部会などとのトラブルのため。残務整理の後、翌年度一杯で解散した。主要な財源を失った体育会は、「全員会員制」の道を模索することになる。
第8回 (76年 昭和51年)
日程: 11月 4(木)、5(金)、6(土)、7(日)
統一テーマ: 自主的組織の強化を図り、活動資金・活動場所を獲得し、全学の自主的組織=学友会の建設を準備しよう!
本部企画: 東てる美チャリティサイン会 ほか
第9回 (77年 昭和52年)
日程: 11月 17(木)、18(金)、19(土)、20(日)
統一テーマ: 自由なる空間-学生自主活動の承認を求めて
* 大学による〝育成方針〟が出される
* パトロール隊(当時の名称は「夜回り」)が結成される
その後、「防衛隊」を経て、「パトロール隊」となる。泥酔者の保護、喧嘩の解決などのために活動した。
* 「学生共斗」(実行委によれば民学同の別名)のビラの黒髪祭批判が問題となる
問題となったのは、「C自の黒髪祭への一面的流し込みが策される中で」という部分である。民学同(民主主義学生同盟)とは、左翼セクト(党派)のひとつ。C自とは、教養部自治会のことで、当時生協、文化部会とともに、黒髪祭を支える主力であった。
黒髪祭公認
黒髪祭が大学に公認されたのは、77年に、いわゆる〝育成方針〟が出されたことによる。〝育成方針〟とは、「大学祭に対する学生部委員会の暫定方針」と呼ばれるもので、
1. 大学は大学祭を全学的な支持の得られる大学祭として育成するため、保安上の問題をも含めて積極的な助言と指導を行う。
2. 大学祭に対する大学の協力と援助は、毎年度の開催の実績を考慮しながら全学的立場で行うこととし、各学部、教養部間の調整は学生部委員会で行う。
以上二点のほかに、学生との対話の窓口を学生部とすることを定めていた。
10月29日には、学生部で検討段階のこの方針が、実行委に伝えられている。実行委側が、黒髪祭の公認を第9回からとしているのはこのためであろう。
この、学生部による暫定方針案が、大学の暫定方針として最終決定したのは、『熊本大学三十年史』によれば12月となっている。だとすれば、第9回は、未公認だったことになる。
方針決定の時期はともかく、第9回が実質的に公認されていなかったのは確かである。公式な折衝は行われず、休講措置はとられなかった。また、教室使用は、平日(土曜日を含む)の放課後しか認められなかった。これらの問題で進展がみられるのは、翌年の第10回からである。また、〝黒髪祭は公認するが、実行委員会は公認しない〟という点が〝半公認〟として問題になった。
第10回 (78年 昭和53年)
日程: 11月 1(木)、2(金)、3(土)、4(日)
統一テーマ: 創造力が権力を奪う
本部企画: 岡林信康コンサート ほか
* 本祭中の休講措置が始まる
* 大学からの現物支給が始まる
* 学生共斗が、実行委と対立する
実行委によれば、独自の企画募集や、総会の議事妨害などが行われたという。
* 学生会館が〝正常化〟される
当時、いくつかの団体によって、集会室などが占有されていた。教職員によって、その〝不法占有部分〟が強制撤去された。
教室使用
第10回に、使用が許可された教養部教室は、15教室である。それに入らない分は他学部で行うようにということであった。理由は、〝管理上の問題〟と、〝複数の核を作る〟という考えであったが、教養部だけが負担を強いられることに対する、教養部側の反対があったようである。その後、「前日になって突然15教室が9教室に削減された」となっている。その経過については分からない。
翌年の第11回では、20教室(22企画)の要求に対し、使用が許可された教養部教室は、16教室であった。教養部のほぼ全教室が使えるようになるのは、2年後の第12回からである。
第11回 (79年 昭和54年)
日程: 11月 1(木)、2(金)、3(土)、4(日)
統一テーマ: 黒髪の地に八千の輪を 学友会を創造しよう!
本部企画: 山下洋輔トリオコンサート(共催:熊大生協) ほか
* 物品借用などの際に、大学の添書が出るようになる
* いわゆる〝クラス解体〟が行われる
教養部の語学カリキュラム変更により、クラス単位で集まる授業はなくなることになった。
第12回 (80年 昭和55年)
日程: 11月 1(土)、2(日)、3(月)4(火)
統一テーマ: 天地人 天の時地の利は人の和に如かず
本部企画: 石黒ケイコンサート ほか
* カンパシールカンパが始まる
カンパのお礼としてシールをあげるというもの。当時は実行委によって〝売る・買う〟といった表現が使われていた。〝売る・買う〟という表現を使ってはいけないとされるようになったのは、後のことである。
* 教養部のほぼ全教室が使えるようになる
* 大学側が、バザー地区の変更を要求する
* 「黒髪 JAZZ INN」がはじまる
この年のパンフでは「JAZZ in 黒髪」
第13回 (81年 昭和56年)
日程: 11月 1(日)、2(月)、3(火)、4(水)
統一テーマ: 原点から 今…
本部企画: PANTAコンサート(後援:全日空、GIG)
* 後片付けの日の休講保障が始まる
* カンパタオルが作られる(翌年まで)
第14回 (82年 昭和57年)
日程: 10月 31(日)、11月 1(月)、2(火)、3(水)
統一テーマ: 二万七千光年の憧憬
本部企画: 沢田聖子コンサート ほか
* 本部室が第6集会室から女子トイレ横の倉庫に移る
82年1月のサークルBOX火災により、例年黒髪祭本部室として使用されていた第6集会室を、〝罹災サークル〟が仮BOXとして使用するようになってため。当初、実行委は、プレハブ建設や、罹災サークルのためにアパートを借りることを検討した。その後の折衝で、大学側から、倉庫の使用が提案された(9月21日~11月17日)。
* 統一教会系の学生団体「原理研究会」の企画参加が問題となる
* 本部企画ミスコンが、女性差別として問題となる
批判があったため、企画名が、「GAL CON」から「黒髪おもしろコンテスト」に変更された。雨のため、実際には行われなかった。
* パトロール隊特別隊(後の青隊)が結成される
原理研問題
原理研究会とは統一教会(世界基督教統一神霊協会)系の学生団体である。熊大原理研のビラによれば、統一協会とは「友好団体」という関係である。「各大学において学生の自主活動を妨害してきており、黒髪祭の本質的意義を脅かす団体であり、黒髪祭への参加は認められない」(『総括総会議案書』)とされた。
『熊本大学新聞』第10号によれば、「当初、実行委員会は『実行委は検閲期間ではないし、別に(原理研の)参加は問題ない』として、議題にも上げていなかった」が、10月13日の第3回総会で、問題であるとの意見がだされ、次の決議がなされた。
「役員会が原理研に対し公開質問状を提出し、なされた回答について不明瞭あるいは黒髪祭への参加が問題であると役員会が判断した場合は、原理研は自主的に企画を取り下げる」(第4回総会レジュメ)
公開質問状に対する、原理研からの回答に対し、「役員会内部でも『回答には問題ない』『やはりチェックにつながるのではないか』との意見があり、役員会の判断も二転、三転した」。(『熊本大学新聞』第10号 82年11月25日)
役員会の判断が参加拒否で決定したのは、10月28日のことである。翌日の第4回総会でその方針は承認され、原理研は参加を辞退した。次年度からは、受付段階での拒否が行われるようになり、第22回まで続く。
第15回 (83年 昭和58年)
日程: 10月 31(月)、11月 1(火)、2(水)、3(木)
統一テーマ: 覚醒時計はもういらない
本部企画: キャンディーズ・フィルムコンサート
FM黒髪(協力:KIR) ほか
* 「一年生実行委」の選出が始まる
* バザー企画の申し込み締切りが、夏休み前になる
* 〝宗教団体「生長の家」とみられる団体〟の企画参加が問題となる
前年の原理研の場合と違うのは、「生長の家」の名で企画が申し込まれているわけではないという点である。団体の中に「生長の家」の人間がいる点や、企画内容が、経済的理由による中絶に反対という、「生長の家」の主張に沿ったものである点から、「生長の家」の企画であると見られた。総会での討論の末、多数決によって、参加拒否が行われ、第22回まで続く。
* 教養部B-22教室占拠事件が起こる
大学が認める一日前の10月30日(日)に準備を行うため、実行委の支援のもと、企画者によって、29日の夜から泊り込みで占拠が行われた。
* 準備のための半日休講保障が始まる(10月31日)
* 野外バザーで火事がおこる
* パトロール隊青隊が制度化される
一年生実行委
黒髪祭は、常にスタッフ不足であった。それまでも、常任委員会や、企画者からスタッフを集めることが行われていたが、83年には、一年生クラスからのスタッフ集めが計画された。それが「一年生実行委」であり、当初は、文字通り、一年生の実行委として計画された。4月13日付の「黒髪祭実行委員会より各クラス委員へ」によれば、「事務局長や第1~第5部長の下についてもらい、主に実務的な仕事をしてもらいます」となっている。
しかし、5月31日の「第1回1年生黒髪祭実行委員会」の会議レジメによれば、「本部との関係は、教養クラスとのパイプ役」に変わっている。
その後、〝有志による実行委〟という形が定着していく中で、毎年、クラスとのパイプ役として選出された。その中からスタッフが出ることもあったが、当初計画されたような、スタッフ不足の抜本的解決にはならなかった。92年度には選出されず、93年度には「黒髪祭係」と名前が変わった。
第16回 (84年 昭和59年)
日程: 11月 1(木)、2(金)、3(土)、4(日)
統一テーマ(メインテーマ): 0の鼓動
本部企画: WEST ROAD BLUES BAND コンサート
「帝銀事件を考える」
* 終了時間を24時にすることを実行委が提案するが、企画者会議で否決される
* 福岡高裁の和解案に沿って、大学と生協の和解が成立する
第17回 (85年 昭和60年)
日程: 11月 2(土)、3(日)、4(月)
統一テーマ: 発現~混沌の海に輝きが蘇る
本部企画: 野坂昭如講演会 ほか
* 日程が4日間から3日間に変わる
例年、大学側は3日間しか認めておらず、大きな対立点となっていた。大学との対立の中で、日程問題のみが焦点とならないように、自主的に3日間と設定された。
第18回 (86年 昭和61年)
日程: 11月 1(土)、2(日)、3(月)
統一テーマ: 今、新たな轍を熊大に!
本部企画: 渋谷陽一トーク・ライブ
伊藤サヤカLIVE(後援:生協労組) ほか
* 準備一日獲得のための授業半日ボイコット運動が行われる
実行委は、ボイコットを〝全体で行う〟ことを総会で提案。反対意見の出る中、実行委が提案を取り下げると言う形で否決された.
* 実行委が、大学への本部室返却を拒否する(翌年1月、第19回実行委により返却)
大学側は、例年3ヵ月(9月~11月)の本部室保障を行っていた。年間保障要求に対し、大学側の対応は、その年によって、〝3ヵ月で十分〟と〝必要性は分かるが場所がない〟の間でゆれていた。
* 学生会館に特別集会室(ミーティング室)が設置される
新福利施設の建設により、学生係、生協店舗などが移転したため。ほかの集会室と違い、大学が直接管理するという形がとられ、音楽などの練習のための使用や、日祭日の使用はできないことになった。
「本当にやりたくてやっていたのは18回まで。19回からは、もうやりませんというとサークルが怒りそうで、怖くてやめられなかった」
元委員長の一人は、冗談交じりといった口調でそう語る。
第19回(87年 昭和62年)
日程: 11月 1(日)、2(月)、3(火)
統一テーマ: 告発したい、これがぼくらの素直な気持ち
本部企画: 牧野剛講演会
「危険な話」広瀬隆講演会 ほか
* 準備一日の保障が始まる
第20回 (88年 昭和63年)
日程: 11月 1(火)、2(水)、3(木)
統一テーマ: 再び原点に!黒髪の舞台に燃え上がるPOWER
本部企画: 「Xデーがやってくる! 天皇制を考える」管孝行講演会 ほか
前夜祭本部企画: 立川談志独演会
* 本部企画の〝天皇制を考える〟講演会に対する、大学からの自粛要請問題が起こる
自粛要求の撤回を求める実行委に対し、大学側は、自粛を要求してはいないので、撤回の必要はないとした。
* カンパシールデザイン公募が行われる
88年といえば、〝88年バカ説〟というものがある。88年度の入学者が無能だったため、熊大の学生自主活動がダメになったという説である。
第21回 (89年 平成元年)
日程: 11月 1(水)、2(木)、3(金)
統一テーマ: 限りなき可能性の原野へ
本部企画: 「虚構の報道」 ほか
* 「Rock in 黒髪」この年で終わる
* 「黒髪JAZZ INN」この年で終わる
* 文化部会が崩壊する
この年、大部分のサークルが脱退したため。数年間の脱退により、29サークルが6サークルとなった。
第22回 (90年 平成2年)
日程: 11月 2(金)、3(土)、4(日)
統一テーマ: 自由空間
コップを砕け!日常を打ち破れ!その力が新しい空間を創り出す!
本部企画: 「天の魚」砂田明一人芝居
「沖縄から日本を問う」 ほか
* 本部室が特別第2集会室に移る
実行委の以前からの希望による。旧本部室横の「黒髪祭掲示板」は、この後も使用されている。
* 〝妨害文書〟が無くなる
〝妨害文書〟とは、大学が合格者に送っていたもので、体育会の紹介の後に、次のような内容を含んでいた。
「なお、熊本大学学友会準備会、熊本大学文化部会、熊本大学黒髪祭実行委員会、熊本大学オリエンテーション実行委員会と称する学生団体名で、入会金などの納入通知を受けるかもしれませんが、これらの団体の金員徴収は、大学として認めていないので念のため申し添えます」(84年度のもの)
第23回 (91年 平成3年)
日程: 11月 2(土)、3(日)、4(月)
統一テーマ: じぶん革命
本部企画: 「死刑制度を告発する」 ほか
* 実行委以外の総会参加者の議決権がなくなる
* 火事が数件おこる
この年の実行委は、8名の役員のみであり、その半数の4名は、1回生であった。1回生のうち3名は、事実上の企画部長という役職につき、うち1名は、会計も兼任した。これは、1回生にかなりの負担がかかる形であり、4月になって新入生が入ってくるまで、黒髪祭をやれる状態ではなかったということになる。
さらに問題だったのは、上級生4名の間で、内部対立が起こったことである。これは実行委員会のみでなく、文化部会系全体に影響を及ぼした。
大学と対立し、企画者・一般学生との間には溝があり、年間を通した本部室を持たず、全学の自治会はなく、運営システムはいい加減という状態の中で、黒髪祭を支えてきたのは、文化部会系の共同体の力である。だからこそ、その共同体がうまくいかなくなったとき、黒髪祭も終わらざるを得なくなったのである。
この年、不安定な実行委のもとで、多くの改革が行われた。改革には次のようなものがある。
* 実行委以外の総会参加者の議決権がなくなる
* 企画者の総会への参加義務がなくなる(以前から実質的には自由参加であった)
* 「何らかの形で何かを『コクハツ』する企画であること」が、企画参加の資格となる
(総会での提案後に取り消された)
* 委員長・会計以外は、特定の役職に就かないという形になる
(実質的には企画部長職ができた)
* バザー企画、教室企画…を、A地区企画、B地区企画…と呼ぶようになる
* 原理研・生長の家の受付段階での拒否がなくなる
近年の流れとは違う形で行われた改革に、文化部会系の多くは、不満を持ったようだ。しかし、総会の場でそういった見解が述べられることは、ほとんど無かった。以前からは考えられないことである。この時点で、黒髪祭は、崩壊したとも言える。
議決権に関する総会の新しい形に反対した筆者は、翌年実行委となり、しかたなく前年度の形をひきずる側にまわり、文化部会系は、一年遅れの批判を展開するという皮肉な形となった。ある文化部会系の人にいわせると、「あれ(第23回)は仲間がやってたから(批判できなかった)」ということになる。
崩壊寸前の黒髪祭に追い討ちをかけたのが、火事の発生であった。準備の日から本祭にかけて、数件の火事がおこったのである。火事がおこること自体9年ぶりのことであり、数件もおこるのは、異例のことである。特に問題となったのは、発電機にガソリンを補給する際、暗かったのでライターで照らし引火するという火事が2件も起こったことである。原因の可能性のひとつとして、大学供給の電気を各テントに回さなくなったことが考えられる。また、数年前から、火事対策がおろそかになっていたという問題点もあった。
文化部会系
文化部会系とは、黒髪祭を支えていた共同体に、本稿でつけた名称であり、文化部会室が、主な活動拠点である。文化部会系の組織としては、文化部会、黒実委、生協組織部、オリ実などがある。思想的統一性は意外と少ない。思想的違いを越えて協力して事にあたれることや、上下の区別がなく、まず自分が動くといったフットワークのよさ、内部での論争を厭わないことなどが長所である。逆に、仲間以外を意識が低いといって軽蔑し、一般学生や教職員との間に溝を作ってしまうのが欠点であろう。91年の共同体崩壊の頃から長所が薄れ、短所が目立つように感じられる。
かつては一癖ある人間が多かった文化部会系も、91年度の入学者からは、ほとんど普通の人ばかりになった(にもかかわらず、団体としては、あやしいという状態が続いた)。そして、91年度入学で唯一黒髪祭的だった人間は、文化部会系を裏切ることになる。
総会
第23回において最も変化したのは総会である。ここでは、総会の変化についてまとめておく。
初期の総会についてはよく分からない。企画参加団体が各一票ずつを持っての多数決が行われていた時期もあったようである。
近年においては次のようになっている。
第21回までは、議論で結論を出し、拍手で承認という形である。司会者は、その場で募るという建前であった。
第22回においては、議論で結論を出した時点で承認は行われている、拍手を行うのは承認の確認のためであり、拍手で承認されるわけではないとされた。もっとも、総会の場で口頭で説明されたため、記録は残っていない。また、司会の依頼が事前に行われていることを公表するようになったのも、この年だったと思う。
第23回では、総会の性格が根本的に変わった。
「意思決定を行うのは実行委員会が主体であり、総会に参加する人々はその過程を監視し、立ち会う一種のオブザーバー(発言権はあるが議決権はない、という意味で)といえます」(結成総会レジュメ)
「黒髪祭の方向性を決め、意思決定を行っていくのはあくまでも黒髪祭実行委員会-役員会である。総会での『承認』は、その結果(=実行委員会の意思)を追認することであり、『全体の決議』ではない。まずこのことをしっかりと認識しておく必要がある」(結成総会レジュメに、参考意見として載せられた、役員会内部の検討用文章)
実行委は、前年まで総会が最高議決機関であるとされているのは「言葉の綾」であり、「これまでも実際には実行委が決めていた」ので、変更ではないとした。
参考のために、総会運営に関する、80年代の内部レジュメを引用しておく。(×××は、団体名)
このまま手をつけないと、×××含めた反対派によりイニシアチブができあがり(総会に大量動員するであろう-教室企画者会議には大物を出している)、僕らの方針は否決されるであろう。(ということで×××等がイニシアチブを強力にとるかといえばそうでない。)となれば、今後の計画が大きく変わってしまう。
そこで、支持者を組織する必要がある。特にこの間黒髪祭を引っぱってきたサークル、人たちにである。
〈リストアップ〉
~別紙~
きちんと話をして、支持を得ることが大事。そして、総会の場で発言してもらう。
〈司会-運営〉
支持してくれる人で、気のきく人に司会を頼む。
反対の意見が出たら、すかさず賛成の意見を出させ、圧倒的に包囲する。
黒髪祭を考える会
92年4月頭頃、4月6日の「黒髪祭を考える会」について伝える次のようなポスターとタテカンが現れた。
現在、スタッフがおらず第24回をできる状態ではありません。そこでこれからどうするのか話し合いたいと思います。黒髪祭がなくなったら困る人未練のある人、ただ好きな人、話し合いに参加してください!! 第23回スタッフ(ポスターの文面)
これは一般学生にとっては、寝耳に水であった。前年12月の総括総会では、次年度の開催を前提に検討が行われている。その後は、外部からわかる動きはなかった。内部資料によれば、2月の時点では、黒髪祭を続けるつもりだったと考えられる。
4月6日の会議では、それまで黒髪祭を支えてきた文化部会系の大部分が、すでに終了の線で固まっていた。この日は、春休み中でもあり、参加者が少なく、意見もあまりでなかったので、21日に改めて会議が開かれることになった。
21日の会議も、内容はあまり変わらず、結論は出ないまま終わった。このときは、次の会議の予定すら立てられなかったように思う。表面上は、これで黒髪祭終了が決まったようなものであったが、会議終了後、一部の参加者の間で、動きが起こる。そして、準備委員会による企画募集、企画者からのスタッフ選出を経て、実行委員会が結成されることになる。
第24回 (92年 平成4年)
日程: 11月 1(日)、2(月)、3(火)
テーマ: 動くことから始めよう
本部企画: 「エイズをめぐる諸問題」
「大学ってなんだ!?」
「アイヌ民族はこう考える」(医学展企画) ほか
* 黒髪祭終了の話し合いがもたれる(4月6日、21日)
* 企画終了時間が午前2時から12時に変わる
実行委が、管理能力の面で、2時まで行うのは難しいと判断したため。
第24・25回の実行委は、企画者に対し厳しい態度で臨むという方針をとった。具体的には、会議を無断欠席した場合の企画取消などである。これに対する反発は、かなりあったようだが、総会など公の場での実行委批判が少なかったのは、残念なことである。一般学生の側にも、それだけのエネルギーが無くなっていたのであろう。
第25回 (93年 平成5年)
日程: 11月 1(月)、2(火)、3(水)
本部企画: 「水俣病はまだ終わっていない」
* 本部室の保障が3ヵ月から5ヵ月にのびる(7月11日~12月10日)
* 黒髪祭終了の決定が行われる(9月)
* 大学側が、終了決定の取り消しを求めるが、拒否する(10月)
黒髪祭終了
93年5月ごろ、役員会で、今年度での黒髪祭終了を実行委の方針とすることが決定された。現状では、次年度の開催は難しいと判断したためであり、前年のように、ぎりぎりになってから終了の話が出ることによる混乱を避けるためでもあった。
役員会の提案に基づき、第1回総会において、第2回までにスタッフ希望者が出なかった場合は終了することが決められた。スタッフ希望者とは、次年度のスタッフになることを前提に、経験をつむため、第25回のスタッフとしても働いてくれる人のことである。
第2回総会において、数名のスタッフ希望者が現れた。すべて一回生であった。名乗り出た人たちがいたことでこの総会における終了決定は行われなかったが、この人たちがスタッフをやらないことになった場合は、役員会で黒髪祭終了を決定することを決めた。
その後、スタッフ希望者を含めての話し合いが行われた。役員が状況説明を行い、学園祭を行いたいのであれば、黒髪祭を終わらせた上で、新しい学園祭を行ったほうがいいのではないかと提案した。同意が得られたので、役員会として、黒髪祭終了を決定した。
大学側の反応
92年、実行委と大学の関係が突然好転した。第24回実行委も、大学に気に入られるような団体とは思えないのだが、文化部会系よりはましだと思われたのであろう。
そのような状況の中、黒髪祭終了の動きに対して、大学側は、なんとか黒髪祭を続ける方向で考えられないかと言ってきた。そこまではいいのだが、終了決定の後で、二部会(大学側の学園祭担当部会)が、終了決定を取り消すように要求してきた。すでに決定済みのため、この要求は拒否することとなった。
黒髪祭は、大学との対立の中で続けられてきた。黒髪祭的な言い方をすれば、大学当局は、黒髪祭を妨害弾圧してきたということになる。それは言い過ぎとしても、大学側が、黒髪祭に冷たかったのは確かである(もっとも、黒実委も大学側に冷たかった)。なるべく協力しないようにし、できれば黒髪祭が潰れてほしいという気持ちはあったであろう。その終了決定を取り消すようにと大学が言う。これは奇妙な話である。しかし、大学の要求を拒否して終わるというこの終わり方は、これはこれで黒髪祭らしいと言えるかもしれない。
終わる理由
なぜ黒髪祭は終わるのかといった問いに対し、実行委は、スタッフが足りないという点と、一般学生のモラルが低いという点を上げた。しかし、これは表向きの理由である。
これまで黒髪祭スタッフの供給源であった文化部会系が、黒髪祭を投げ出した時点で、黒髪祭はすでに崩壊している。まず、これが終わる理由である。さらに、別な形での黒髪祭が続くのを好まない文化部会系が、妨害を加えてきた(と、実行委側は感じている)。これも終わる理由である。第25回まではいいとしても、次の世代に、文化部会系と喧嘩しながら続けてほしいとは言いにくい。また、第23回まで大学側が非協力的だったのも、終わらざるを得ない状況になった理由といえる。
しかし、終わる理由を一言でいうならば、終わったほうが得だからということになる。黒髪祭はすでに崩壊しており、先は見えている。そのようなものを無理に続けるよりも、新しい学園祭に道を譲ったほうがいい。そして、道を譲るのであれば、92年春のような混乱の末〝崩壊〟するのではなく、早めに手続きを踏んだ上で〝終了〟したほうがいいということである。
熊粋祭
第2回総会で名乗り出た一回生を中心として、11月に「学園祭がんばろうね会(G・G会)」が結成された。次年度学園祭の運営について検討するための団体である。そして、この会を母体として、翌1月、学園祭実行委員会が結成される。その後、新しい学園祭の名前は熊粋祭(ゆうすいさい)と決定された。
最後に
本稿の結びとして、二つの内部文書から引用をしておく。
学生って〝特別〟なんですか、大学って何ですか 大学祭だから何やってもいいのか、何が起こったって大学祭だから仕方ないのか ましてやそれを学生の責任ではなくて大学の責任としていいのか 社会的にはすべて大学の責任になってしまう ケンカ、騒音、泥酔、何かあったらどうするっていうのか 総括折衝で〝スミマセンって〟頭下げて終わり? んな無茶苦茶な そりゃ何ができる?と言われるとこまるけど、でも 実際 それくらいの責任でしか黒髪祭をやれないってことを反省しないといけない。
(中略)
教室の件は絶対にゆずらん!「〝授業妨害、泊りこみ〟時と場合には必要だ」冗談じゃない 絶対にやらんぞ 安田講堂じゃないんだ。
(中略)
このままやってるとおそらく〝告発祭はくろかみ祭〟に〝文化部会は文サ連〟にしてしまいそうで、そうなって、皆さんとやりあうのも心苦しいし、物理の勉強もしたいし、だから仕事は今年まで、今年はがまんしてください。
(「委員長へ」 80年代)
私は第23回実行委員会、すなわち火事と泥酔者が多発し、大規模な喧嘩が発生した、文化部会周辺の人々と未だ仲良かりし時代の最後の実行委員会で教育(と書いて、「洗脳」と読む)された人間である。いわば、熊大における自主活動、とりわけ黒髪祭の技術と思想、そしてねじ曲げられた真実を、英才教育によって叩き込まれた人間である。
(中略)
妄想にとらわれ、限界を超えて太りつづけた黒髪祭が、ようやく妄想から解放されることは、私に大きな安堵をもたらしてくれる。しかし、同時に空虚さを覚えることもまた否定はしない。私も黒髪祭とともに夢を見続けてきたのであるから。
(「来期学園祭運営にあたっての私見」 93年)
ただいまコメントを受けつけておりません。